2011年10月30日日曜日

生物多様性保全の意味

気が付けばあっという間に10月も終わり、帰国して2か月が経ちました。日本での日常はいろいろとありすぎて、もう5年くらい経ってしまったような気になっています。
先日、ありがたいことに某新聞社から取材を受けました。その応答の中で、自分でも気づかなかったこと、この経験がどのように自分自身に影響を与えたのかということを再考することができ、とてもためになりました。記憶が薄れないうちにいろいろな方にしゃべり、その中でまだ気づいていないことを発掘できたらと思います。

さて、先月書くと言ってそのままになってしまっていたこと…

昨年、愛知で行われた生物多様性年の国際会議を機に、「生物多様性」という言葉が(中身はともかく)社会的に認知されるようになったような気がします。私は以前から生物多様性の話を授業などでも話していました。その中で学生から、多様性の意義なんて考えたこともなかった、この話を聞いてよかった、という感想を受けていました。しかし、生物学的に見た多様性の意義というのは説明するのが難しく、日常生活に直結させることでしか正当化できてないということを感じていました。よく聞くのは、「人間の役に立つ植物が、その効果を検証する前に絶滅したら困る」とか「人間にとって快適な環境を維持するために重要だ」ということです。たしかに、それまでそんなことを考えたこともなかった人にとっては、自分の生活にどう関係するのかというのはわかりやすいし重要な切り口だと思います。でも。

ガラパゴスで1年生活してみて、わかったこと。
個別の生き物を見て、イイと思う。
どうやってここに来たのか、どんな性質をもっているのか、どのように進化してきたのか、その生きざまは興味深い。
そして限られた空間の中ではなく、彼らの生きる自然の姿こそが、美しくておもしろい。

ぶつかりそうに飛び出してくる、愛嬌のあるフィンチ。
人目を気にせず道路の真ん中で昼寝するイグアナ。
悠然と飛び回るグンカンドリと、よちよち歩きのペリカン。

彼らの自然に生きる姿、そのつながりが、地球上に生きる生物の真の姿であり、輝く命そのもの。
だからそのすべてを包含している自然がいとおしい。
―これが、ある種の生物を「守る」のではなく、生態系全体を「保全する」本当の意義なのだと思う。

役に立つかどうかなんて、本当はどうでもいいんだ。
そこに命のつながりがあり、絶妙なバランスの上で成り立つこの地球上の生物同士のつながりが、ただただ面白くて、美しくて、素敵なのだと。
それを見て楽しむことが、人間として心豊かに生きられる。それだけでいいじゃない?


さて、他にもネタとしてはあれこれあったのですが、この際、いつ更新できるかわからないこのブログはここでいったん終了して、来年、別の形でみなさまにお届けできる…かもしれません?
乞うご期待!

今後の動向については、研究室HPhttp://home.f00.itscom.net/kuralab/)へ移行します。

それでは、ちゃおちゃお~♪

2 件のコメント:

  1. 私もガラパゴスに通ううちに、そして保全に関わるうちに、全く同じことを感じていました。
    自然の美しさ、楽しさ、なんだか分からないけど感動すること、涙が出てしまう風景。自然ってなんてすばらしいのだろう。この感情こそが、ガラパゴスに来て感じられるものであり、かつ世界中の自然に共通することなんだと思います。
    生物多様性保全の意義なんて、結局は理屈というか、屁理屈で、根底にこの感情があって初めて、真の保全がなされるのだと思います。
    今後のご活躍を期待しています(^_^)/

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  2. ありがとうございます。
    授業でも、工学系の生物学もまともに勉強してこなかった学生たちに「生物多様性保全の意義」なんてしゃべっているのですが、その「屁理屈」がもう自分でも笑ってしまうほど白々しくて、ついに先週「いいじゃない、生物がたくさんいて楽しくて面白い、それだけで」と言ってみたところ、予想以上に共感が得られました。難しいこと抜きにして、そういう素直な心は全人類共通なのかもしれません。
    これからもよろしくお願いいたします。

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